無明の私に遇う: 「歎異抄」第四条より 瓜生崇

2018年8月9日

歎異抄四条は「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」という言葉からはじまります。

聖道の慈悲とは、ものを「あわれみ、かなしみ、はぐくむ」とあります。人は人を救いたいと思い、お互いを思いやって通じ合わない心に苦しみます。そして、誰とも通じ合えず、生まれた意味を知らず、ひとりで生まれ、ひとりで死にゆく、「無明の私」に出遇うのです。

阿弥陀如来がすくうと誓うのは、その「無明の私」に他なりません。「南無阿弥陀仏」という声を聞くとき、最もすくわれなければならない「無明の私」が、呼ばれ続けていたことに目覚めるのです。

若手僧侶の法話を書き起こした、優しく明解な歎異抄の話。

瓜生 崇(うりう たかし)
1974年、東京生まれ。
電気通信大学中退。現在真宗大谷派玄照寺住職。
著書『さよなら親鸞会』など

この商品は、Kindleの電子書籍としてご購入いただけます。お使いのスマートフォンやタブレット、パソコン(Windows、Mac)にKindleアプリを入れることでご利用になれます。