「決して何かが完成したわけでも、終わったわけでもなくて、その始まりなんです。」(マイケル・コンウェイ『信の源泉を尋ねて』)

2016年5月5日


 おそらくこの出遇いの中で、一つ大きな価値観の転換が要請されて、その価値観の転換が起こったと思うんです。僕がお寺に行った時にかなり野蛮な価値観を持っていたわけです。まずいい人になりたいという思いがあった一方、僕自身が一番大切だという思いがあったんです。世の中で僕が一番大切な存在だということを前提に生きていました。その意味において周りのことが自分より格の低いものでした。僕の邪魔をしているものは排除しよう、好きなものは寄せ付けようという思いがあったんですね。また周りの人が僕によって裁かれるべき存在で、僕が裁く立場にいるという発想に基いて生きていました。
 言ってみるとひどく聞こえますが、しかしこれが人間の自然なあり方なんですね。私達の頭のいたって自然なはたらきとして、周りを裁いて自分を上に見ようとするわけです。本当に尊い存在、尊い価値観、尊い智慧に出遇いながらも、見れないまんまでいます。自分の頭がそれほど厄介な存在なのかということを、知らしめる体験でしたね。未だに教えを聞くときに、どこかで自分の価値観で話している人を裁こうとしているんですね。
 時々アメリカ人たちと仏教を学ぶ勉強会をする機会があるんですけど、その中で本の読みあわせをしますと、「私はこれが好き(I like this)」、「これが嫌いですけどこれが好き」というようなことがよく感想の中で出てくるんです。教えを自分の都合のいい、自分の軸にあう教えを拾ってきて、自分の嫌いな教えは無視するというようなことを、よく言われるんですけれども、僕も度々そういうことをしているわけですよね。自分の好きな教えを拾ってきて、よく分からないこととか都合の悪いことを、見ようとしない傾向があります。
 聞き続けてゆかなければならないという問題があるわけです。僕がパティー先生に話を聞いて、深い感激を覚えたこと、十六年前にパティー先生に出遇ったことが、事実として今の人生の起点です。一つの大きな決定的な意味を持っているわけです。それが一つの始まりなんです。決して何かが完成したわけでも、終わったわけでもなくて、その始まりなんです。おそらくそれが南無阿弥陀仏という言葉の意味を、本当に身をもって聞いたということだと思います。本当に身をもって尊い存在に対して頭を下げなさいと、そういう教えを、身をもって受け取った時なんです。しかしそれが一つの末端です。それが言わば仏願が私の中に芽生えたということです。その時は仏願という言葉は一つも知らなかったんですけど、私の中に仏願がぱっと芽生えたわけです。

『信の源泉を尋ねて―真の価値観を求める歩み―』 (マイケル・コンウェイ)