増補版 衆生という存在: 存在の根底から問われ、願われている〈私〉 高柳正裕

2020年6月12日

<自らが苦しくて、迷っていて、光が見えない時には、人間というのは求めずにはおれません。人がどうのこうのと言っている暇がないのですね。必死に求めずにはおれません。ところが、何かに触れて悟ったとなると、必死でなくなるのです。そうすると自分が偉くなってしまうのです。真宗でいうと、自分は凡夫だとか愚者だとか言いながら、「凡夫だと自分は自覚した」と、偉くなってしまうのです。それは自己陶酔です。そして周りに取り巻きを作って、気持ちのいい王宮の王様になるのです。それを「敗壊の菩薩」というのです。求めることがないのではありません。上に求めることはあるでしょうね。しかし礼拝において起こるのは、底への無限の沈降であるのです。>

□底下の凡夫――『浄土論(註)』から『往生礼讃』へ――
天親腹・曇鸞腹と善導腹
不虚作住持功徳の「満足」
『歎異抄』――唯円の機の深信
『往生礼讃』との出遇い
天親菩薩と善導大師――お二人の「五念門」
何故、五念門から称名を外されたのか―「断絶」ということ
『往生礼讃』――「観察」ではなく「礼拝」
「前念命終 後念即生」
親鸞聖人の深心釈
『安楽集』と二河譬
ニーチェの「超人の闇」が意味するもの
「敗壊の菩薩」
凡夫に帰る

□「他ならぬこの私」と「いのち」
「阿弥陀の名義」と「南無阿弥陀佛」との距離
「業識」を貫き根拠づける「寿命」
化佛としての「阿弥陀」は何故必然するのか
勅命の声を聞く「欲生」存在
「存在の海」の発見――煩悩の意味の転

□僧伽の時空=宿業共震の海へ

著者略歴

高柳正裕
1956年愛知県生まれ。金沢大学法文学部卒業後、タクシー会社・鉄工所・新聞配達などを勤めた後、大谷専修学院、大谷大学大学院博士課程修了。元東本願寺教学研究所所員。学佛道場回光舎を主催。様々な宗教者や思想家と対話しつつ、有縁の人々と共に道を歩んでいる。

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