2014年11月17日
「疑い晴らすのも、信じさせるのも阿弥陀仏のお力ならば、なぜ今自分は救われていないのでしょうか?」
浄土真宗の信心とはなにか、念仏とはなにか、救いとはなにか。湧き出る疑問を40の問いとして取り上げ、著者は経典や聖教の根拠を一つ一つあげ、決してごまかすことなく丁寧に答えてゆきます。仏法聴聞の友として、繰り返し読みたい好著。
「本願力にあうひとには、南無阿弥陀仏という場が与えられます。必ず往生する浄土もあります。常に呼びかけられる南無阿弥陀仏があります。「自分 の目の届くところが世界の全てではない」と目を開いてくださるのが南無阿弥陀仏です。そういう意味で、今の南無阿弥陀仏が私の生きる場所です。しかし、そ れは苦しい現実を渋々我慢しなさいということではありません。浄土往生をする身にして頂いた人生は、阿弥陀仏より与えられた人生です。どんな人生であって もそれは、阿弥陀仏から与えられた人生ですから、命の限り生き抜いてください。浄土に向かう人生はむなしくすぐるものではありません。」
目次(抜粋)
・南無阿弥陀仏と称えても何も変わりません。信心とはこんなものでしょうか?
・「助ける法」を聞くと「で?」と言ってしまう構造について
・阿弥陀仏の救いは現実の人生の苦しみに対しては無力?
・念仏よりも信心が大事なのでは?
・阿弥陀仏に「お願い」するのは間違い?
・「信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり」とは?
・本願文の「唯除五逆誹謗正法」をどう読む?
・阿弥陀様は「声の仏様」?
・南無阿弥陀仏は阿弥陀仏がつけて下さる私の名前です。
・真宗人としての生き方とは?
・どう聞いても信心とはならないのですが…
・阿弥陀仏に救われるとは、何かで心がある到達点にいたってはっとわかること?
・疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは何ですか?
・「そのままの救い」とは?
・すべての人を救う本願が成就しているのなら、私も救われていてもよさそうですが…
・信心決定すれば「本当の幸せ」になれますか?
・救われないけれど聞法をやめるにやめられません
・疑い晴らすのも、信じさせるのも阿弥陀仏のお力ならば、なぜ今自分は救われていないのでしょうか?
・現在、南無阿弥陀仏と称えて聞いていますが、これは信心なのですか?
著者略歴
宮田秀成
一九七三年山口県生まれ。
関西学院大学在学中に宗教法人浄土真宗親鸞会に入会。大学卒業後、親鸞会講師部員として十年間活動。その後、親鸞会を除名となる。現在、特定の宗派に属さない布教使として活動。
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