「自分が生きていることに対してほんとうの満足と確信を得たい」(鶴田義光『すでにこの道あり』)

2016年1月6日

 要するに問題は、今自分が生きているこの現実というものに満足が見出せないということです。何か不安で確信がもてないのです。だから「何のために生きるのか」という問いは、実は、現在自分が置かれている境遇にほんとうの満足を見出したいという切実な要求の現れだと言えます。自分の生きている現実に対して確信がもちたいわけです。たとえどんなに苦しい境遇に身が置かれていようとも、現在の自分自身にほんとうの満足を見出したい。そういう自分の心の底から起こって来ている深い願いの現れなのです。それが仏教で言う「菩提心」とか「求道心」というものではないでしょうか。菩提心とか、求道心とか言っても何も特別な心ではないと思うのです。人間である以上は誰もが本来もっている「自分が生きていることに対してほんとうの満足と確信を得たい」という要求であり、願いであると思うのです。そして、自分の人生にほんとうの満足を見出したいという自らの深い願いに目覚め、その願いを自覚的に生きていく歩みを「仏道」と呼ぶわけでしょう。そういう意味では、人生というのは本来、仏道として与えられているのだと言えるのです。しかし、その自分の心の底から起こって来ている深い純粋な願いが、苦しい現実は嫌で楽な現実が欲しいという自分勝手な都合のいい思いによって覆われているために、そう簡単には自覚できないわけです。要するに、「何のために生きるのか」というと、実はそういう自分の中の深い願いというものに目覚めて、その願いをほんとうに満足させるためにこそ生きるのである。人間としてのこの限られた命を与えられたことに対して、ほんとうに満足を見出すためにこそ生きるのだと、こう言えると思います。
ですからこの時、僕に起こった「何のために生きるのか」という問いは、実は自分が人間として生まれてきたことに対してほんとうの満足を見出したいという、そういう求道心の現れとして起こって来た問いであったと言えます。表面上は苦しい現実から逃げたいという自分勝手なわがままな思いでしかなかったわけですが、そのわがままな思いの背景の深い所では、この時すでに求道心の歩みが始まっていたのだと、こう言っていいのでしょう。しかし、それは今だからこそ言えることであって、その当時は全くそんなことは思いもよらないことだったのです。

『すでにこの道あり 生きることの意味を求めて』(鶴田義光著)より