すでにこの道あり 生きることの意味を求めて 鶴田義光

2015年1月26日

高校時代に生きる意味に悩み、退学し、再び入学するもまた登校拒否。人生は生きるに値しないと結論付けた著者だが、絶望の淵から浄土真宗寺院に導かれ、「回心」を体験する。その後は養護学校の教師となり一時仏法から離れるが、迷いと苦しみの人生から再び始まる聞法の日々。そこで著者は親鸞の教えに何を見たのか。果たして人生は生きるに値するのか。
「一切は仏法に出遇うためであった」と知らされた著者が語る浄土真宗の教え。混迷の青春から「南無阿弥陀仏」との邂逅がもたらした、心を揺さぶる魂の軌跡である。

「自分が迷っているという事実には底が無いのです。だから、底の無い深さをもった迷いの事実を気付かしめる仏法にも底が無いわけです。迷いの事実に底が無いからこそ、人生には無限の豊かさがあるのだと言えます。つまり、自分の迷いの深さに気付いていくことが、同時に人生の豊かさを味わっていくことであるわけです。逆の言い方をすれば、人生が空しく、無意味に思えるということは、自分が迷っている事実に気付いていないからだと言えます。人生が生きるに値するということは、人生は迷うに値するということであります。迷いのもつ豊かさが人生の豊かさであるのです。」

著者略歴

鶴田義光(つるた よしみつ)
1960年大阪に生まれる。高校中退、登校拒否などの挫折を経験した末、1980年、順正寺(真宗大谷派)をご縁として、仏法(親鸞の教え)に出遭う。1986年、大阪教育大学卒業。愛知県の養護学校教員となる。

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